R's page

方向性を、模索中です。。

アダルトチルドレン。

AC(=アダルトチルドレン)という言葉は、ずいぶん前から知っていました。

 

私は読書が好きで、大学の頃から福祉・心理の本を読んでいて知っていたし、福祉系の専門学校で勉強した時も、私が福祉の仕事をするうえで将来かかわる人たち(高齢、障害、児童分野どこにいっても)にはACは多いだろうなと思っていました。

 

「あれ、なんかちょっと自分に被るところあるかも」

とは思っていましたが、まだまだ他人事でした。

 

しかし、昨年仕事を通じて「愛着障害」、「機能不全家族」バリバリの子どもに出会いました。

子どもなので現在進行形で機能不全家族で、その子の言動は愛着障害そのもの、将来はAC間違いなしだろう、という感じ、支援にとても悩んでいました。

 

いつしか、その子への支援に入り込みすぎていることに気づきました。

あれ、なんでだろう、でもこの子が言っていることよく分かる、この子の言動あのころの自分と似てる…彼女を幼少期の自分と重ね、幼少期の自分を救いたくて同化しすぎて、どんどん気持ちがおかしくなっていることに気づきました。

 

(中略)

 

心が壊れました。

何もできなくなりました。

 

(中略)

 

自分の心の奥底にいたモヤモヤくんはこれまでもしばしば心の中の湖に波を立たせていましたが、このころは毎日大波、大嵐。

気持ちが幼少期に戻り、情緒不安定そのものでした。

「ぼくはここにいるよー!」といわんばかりにアピールをしてきて、過去の体験にガッツリ向き合わざるを得ませんでした。

生まれて初めてカウンセリングに通い、トラウマ治療というものをしました。

 

(中略)

 

モヤモヤ君の正体がACであるということに気づきました。

 

「なんでわたしってこんな仕上がりなんだろう。」

ちゃんとした大人になれていない自分を痛感するエピソードがありまくり、さらにとても生きにくさを感じ、所在なさを感じ、、死にたくはないけれど消えたいという感情が常に心の中にいて自分の存在の否定をしまくる日々の中で、自分が機能不全家族に育ち、自分がACだからだと知ると、しっくりしたのです。

 

アダルトチルドレンについて記載されているサイトより、引用したものを載せてみます。(機能不全家族とACとは密接な関係があるのです)

 

 

機能不全家庭で育ったことにより共通して持つようになったと思われる特徴


機能不全家庭で育ったわたしたちは、次のような特徴を持っているようです。これらは、わたしたちに共通して持っていると思われる特徴であって、非難ではありません。わたしたちは、こうした特徴をもっていることを認めることから始めます。


  1. 孤立するようになり、他者(特に権威者)を恐れるようになった。
  2. 承認を求めようとするようになり、そうしているうちに自分を見失しなった。
  3. 怒りや、批判におびえる。
  4. アディクションを持つようになったり、アディクションを持つ人のパートナーになったり(両方の場合もある)、強迫的な問題を持つ人間を見つけて、自分の病んだ自暴自棄の欲求を満たそうとする。
  5. 人生を「犠牲者」または「救助者」の目で見て生き、人を愛したり友達になったりするときにも、相手のそういう弱さに惹きつけられる。
  6. 過剰な責任感を持っていて、自分のことよりも他者の心配の方が先に立つ。そうすることで、自分の欠点や自分自身に対する責任をよく見ないですむ。
  7. 人のいいなりにならずに自分の意見を述べると、罪悪感を感じる。
  8. かり立てるものを常に求めている。
  9. 愛を哀れみと取り違え、自分が「哀れみ」「救える」人を愛する傾向がある。
  10. トラウマ(心的外傷)を負わせるものだった子供時代から感情を抑え込んできて感じることや自分の感情を表現することが出来ない。
  11. 自分のことを手厳しく裁き、自己評価が非常に低い。その反動で、人より優れている人間であるように見せようとすることがある。
  12. 依存的な性格であり、見捨てられることを恐れる。見捨てられる痛みを経験しないですむように、人との関係を続けて行くためにはどんなことでもしようとする。
    このような人との関係の持ち方が身についている。
  13. 自らの意図で行動するより反応する傾向がある。

これは特徴を述べたものであって、非難ではない。

(Newcomer's Packet, 1st ed., Adult Children of Alcoholics, San Diegoから引用)

 

 

歳を重ねるごとに自分を知って俯瞰して自己分析できるようになっているなと思っているのですが、そんな今だからこそより納得します。

 

この特徴、当てはまりすぎる、だからか、と。

そんな自分を知り、そして納得したことで、本当に心がすっと楽になりました。

そして、知ることで、「さー、これからどうしよう」と、無理な選択ではなく肩の力を抜いた選択をできるようになってきている気がします。

 

「これからどうしよう」の中の1つがこのブログ。

自分の考えやこれまでのこと・これからのことの整理で、闇の昇華作業をすること。

それから、無理ない範囲で専門機関や支援機関に通ってみようかなというのもこれからしたいこと。

 

何より一番優先したいことは、「自分の情緒の凪状態を知ること」。

 

自分の情緒の凪を知るということについては、また今度記事にしたいと思いますが、仕事も勉強も休日の過ごし方も何事も「過多」気味だった私にとって、自分を凪の状態にすることって意識的にしないとわからないことなのです。

仕事なんてやる気ないの極みですが、それくらいがたぶん丁度良いのだと思います。笑

 

アダルトチルドレン、上手に付き合って生きてゆきたいと思います。

 

追伸:

書いておきたいことがあって。

私、32歳にして、ようやくこう思えるようになったのです。 

本当にここ(ACの自覚含め)にたどり着くまでは少しずつ、一歩ずつであり、感情は驚くほどに上がったり下がったりの繰り返しであり…

そういうことをたくさん経て、やっと、自覚し、どうしたら生きやすくなるのかなと、緩やかに行動に移そうと思えるようになったのです。

 

それまではわけのわからない激しすぎるトライアンドエラーを繰り返してきたし、その中で社会的信用は失ってしまったと思うし、逆に言えばそれを経なければここにはたどり着かなかったと思います。

 

だから、なんというか、焦らないでいきましょう、と思います。

自分の今の感情を大事にしていくことが、明日につながっていくと思います。

らせん状の階段のように、でも確実に一歩ずつ歩みは進んでいるのだから。

大丈夫、大丈夫。と、自分にも言い聞かせて。

このブログを始めた、きっかけについて。

私がこのブログを書こうと思ったきっかけを、記しておこうと思います。

というかこれがないと、一応どこかの誰かに向けたブログなので、届けたい声も届かないだろうなと思ったから。

 

私は、誰かに診断されたわけではありませんが、立派な「アダルトチルドレン」です。

私が育った家族は、これまた立派な「機能不全家族」で、最近になってようやく感情の波がゆるやかになってきたけれど後遺症は未だに残りまくりな家族なのです。

※詳しいことは、これから少しずつ記事にしてゆきます。

 

10~20代のころはどうにかこの社会になじめるように、なんとか生き抜こうと、いろいろな処世術を身につけて行動に移し、生きてきました。

しかし、その行動のそのすべてにおいて、いつも「無理」をしていたのだということを知り、振り返った時に、「これまでの人生の意味って、選択の意味ってなんなん?」と絶望したものでした。

 

いつも、居場所がないと思っていました。

いつも不安で、焦燥感に駆られていました。

ベストな選択を、と、大真面目に大学を中退したり関東から九州へ移住したり海外に行こうとしたりしていました。

 

私の友達はハイスペックな人が多いので、これまでの人生を見ててくれた周りの人はおそらく、それぞれの選択に対して「それで大丈夫?」という目で見ていたと思います。

 

本当に紆余曲折あって、昨年どん底に落ちて、全部やめて。

人生初めてのカウンセリングに行き、心療内科に通い…いろいろと振り切って、やっと、10代後半くらいの気持ちになれたような気になりました。

 

今は、正規職員、一人暮らしでなんとか自立し始めました。

他人から見れば随分前から自立しているように見えていたと思いますが、自分の中では本当の意味での自立ができ始めたように思っています。

これは、過去のことは何も解決はしていないしたぶんしないとは思うけれど、過去との折り合いは確実についてきたからだと思います。

 

家族の名誉のために書いておきますが、今ようやく一緒にご飯を食べても普通の家族っぽくなり、それぞれが愛情の表現が驚くほど下手くそだったのだと知りました。

 

ただ、そこで経験したこと、感じたことは消えることはないのです。

本当にたくさんの葛藤があって、様々な感情を経た今はもう、家族を責めることはないと思いますが、悲しかったこと、苦しかったこと、ぶつけたかった感情、言いたかったこと、心にしまったいろんな感情は、少しずつ整理してゆく…「つきあっていく」ものなのだなと思っています。

 

今はこんな風に思っていて、そう思うようになったのはなぜか。

また、等身大の自分が思うことはなにか。

このブログを通じて、その時々で変化していく感情、気づきはなにか。

 

そんなことをここに記して、誰かに何かが伝わればと思っている次第です。

 

私は、ここに至るまでにたくさんのモノに助けられてきました。

音楽、ドラマ、映画、本、ブログ…

ああ、似た人がいるんだ、同じように考える人がいるんだ、この人はこう考えていてこうなったんだなと、自分と似た人を探して希望を見出して生き抜いてきました。

わたしのブログが希望につながるかどうかわからないけれど、どこかにいる誰かに対して何かが響いたり、その所在のなさを少しでも癒す(?)、そんなブログになればと思っています。

 

そして、私のブログはセンセーショナルな内容はないと思いますが、こういう人が世の中にはたくさんいるんだということ。

そして、お互い様なのだからみんな助け合っていこうよと、優しい気持ちであれる世の中になればいいねという、どこかの誰かに向けてのそんなメッセージにもなればと思います。

わたしは○○です(趣味編)。

突然ですが、このページに記事を書いている人がどういう人なのか、紹介させていただきます。

 

わたしは、昭和61年生まれ、女、独身。

趣味は、映画鑑賞、海外ドラマ鑑賞、音楽鑑賞、読書、写真を撮ること、静かで美味しいお店開拓、ドライブなど。基本インドア。

 

ちなみに海外ドラマは「シックス・フィート・アンダー」、「THIS IS US」、「ゲーム・オブ・スローンズ」、「オリーヴ・キタリッジ」にはまっていて、こういう雰囲気の作品が好きでもあります。

 

歌手は、原田郁子さんが一番心地よい。歌詞もメロディも好きです。

最近知った歌手でいうと、ヒグチアイさん、寺尾紗穂さんも気になっていて、ヒグチアイさんはとあるイベントへ会いに行って生歌を聴いて涙ほろりでした。メジャーどころだと、アンジェラ・アキも好き。

ピアノを高校生まで習っていたので、ピアノを奏でる歌手が好きなのかもしれません。

 

最近気になっている人は、大宮エリーよしもとばなな

お二人ともぶっ飛んでる感じがとてつもなく魅かれます。

 

作家さんだと、アラサー独身関連で益田ミリさんはもうほとんど読破。

昔は重松清辻村深月さんとかむさぼるように読んでいたけれど、今はいろんな作家さんをゆるく読んでます。

が、日常の疲れを言い訳に、映像ものばかりです。。もっと活字を読みたい。

 

今の関心ごとは、インターネットとの付き合い方をどうするか。

iPhoneを片手に生活していますが、明らかに携帯依存症。。。

 

不便なら不便で、工夫して生きてゆけると思うのです。

私は自分で、便利だとどんどんそこに依存していく性質であると認識していて、でも案外なくてもその不便さの中で工夫をしていく性格であるとも理解しているので、いっそのこと超絶シンプルな機能のみを保持しているガラケーにしたいなと目論見中。

11月、12月が更新月なので、期間終わるまでには整理したいところです。

 

いま思いついたところはこんなところです。

趣味のことが多かったので趣味編ということで、また何かあれば違うバージョンで記事にしてみようかと思っております。

 

というかそもそも誰に向けた記事なのかよく分かりませんが。

しばらくは自分の頭の整理をメインの目的で書いていこうと思っております。

はじめまして。

はてなブログさんで記事を書くのは、はじめましてな私です。

子どもにかかわる仕事をしている、32歳、女です。

 

ブログ自体は10年ほどしていたのですが、そちらはほぼ読者はいない、非公開ブログ。

「昇華作業」(別の記事で詳しく記載します)として、敢えて外に発信するものを書いていきたいと数年前から思っていて、突然これに着手したという感じです。

なので、はてなブログさんは全世界へ発信です。どきどき。笑

 

私はおしゃべり自体は好きですが、話をすることは得意か不得意かでいえば「くどい」と言われがちで不得意。笑

どちらかというと、文章を書くのは話すよりは得意で、というか文章を書くことが昔から好きで、もう習慣化されている感じ。

 

自分の心の中にあるものを、文章化することで昇華したい。

 

とある歌手が歌詞を書き歌うことで、その行為はつらいけれどもすることで心の闇を昇華するように。

とある画家が、不安定な精神状態を、ずっと同じ模様の作品を作り続けることで、保つように。

 

私も、文章を書き続けることで、心の中を整理して、昇華していきたい。

 

そして、その行為を公開しようと思ったのは、きっと、同じように考え生きている人がたくさんいると思ったから。

 

わたしは特別な才能を持っているわけでもないし、特別な環境で生きてきたわけではなく、はたから見ればある程度恵まれた環境で育ってきたと思われがちで。

たとえば学校のクラスで見たら、超優等生でも、いじめられっこでも、問題児でもなく、その中にいた「ふつう」の子。

その「ふつう」にいた人は、成長して、いろいろなことがあって、今、文章を通した昇華作業を必要としているのです。

 

ずっと、所在のなさを感じてきました。

それを埋めたりごまかしてきましたが、気づきました。

たぶん、これはずっと続くもので、付き合っていく感情なのだろう、と。

 

そんな気持ちを、32歳の等身大のわたしの考えることを、つれづれと書いてゆきたいと思っています。

 

ご縁がありましたら、お付き合いください。

どこかにいるだれかに、思いがとどきますように。